わたしがしたかったこと
値下がりしてから、と思っていたのにどうしても観たくなってしまって
<スパイダーマン ホームカミング>
<マイティ・ソー バトルロワイヤル>
立て続けに見ました。どちらもとっても楽しかったです。
難しくみる必要がないのもいいのかもしれません。
ただしみながらおやつを食べていたので、お腹が張ってしまって悔やんでいるところです。
ずっと同じ体勢だったから背中も痛みます。
寝る前に、呼吸法をしておきました。
服部みれいさんも実践されていた”恋愛呼吸”です。
呼吸のノートの方は、一日のうち、どこかでやればOKのゆるさにしました。
加藤さんは、呼吸法を実践したあとは気づきをメモしておくことを推奨されていまして、それが呼吸のノートという形にもなっています。
すでに呼吸法もその気付きのメモを終わった後なんですけれど、
眠る支度をしてさあ寝るぞ、となったらふと”降りてきた”ので記事にしておきます。
わたしはむかーし学校の先生になろうとしていました。
結局、自分の夢見ていた世界ではなく、そして自分が耐えられる世界でもないと知って半ば逃げたようなもので終わりました。
そのあとも、”教育者”になりたいと一応の夢をもって生きて、人にも恵まれて何度かその立場にさせていただいたこともあります。とはいえそれも長くは続きませんでしたし、正直やってみたものの役が勝ちすぎていると常に感じていました。
今までずうっと、それは私の力不足のせい、もしくは環境やタイミングのせい、と信じていました。私はそもそも”教育者”には向いていないんだ、とまで考え、役目を降ろされた時は安堵すらしました。
おそらく、半分くらいは正解だったのかもしれません。
見事に引き寄せの法則が働いていたのだと、つい先程気づきました。
学校教育に失望したのも、”教育者”の立場の自分に自信をもてなかったのも、すべては私自身がしたかったこととそもそもずれていたからなんです。
私がそもそも学校の先生になりたいと思ったのは、とある先生との出会いでした。
博識で、人徳に溢れ、どっしりと構えつつも弱みをみせてくれる。そうして、「大丈夫」といってくれる。生きることそのものに、今以上に罪悪感しかもてなかった私に、生きてもいいと言ってくれた。
学校というのは、どうしてもひとつの正義があって、ひとつの箱があって、そこからちょっとはみ出るだけで、悪者になり、除け者にされるんです。どんなに善悪を大人が押し付けても、というかその”教育”自体が子どもたちにも”善と悪”をさせるんです。
私には途方もないことでしたから、そうではなくて、ただ悪を強いられた子に寄り添うチャンスを得たいとおもっていました。
「誰がなんと言おうと、なにをしようと、君は生きていい」
先生が私にしてくれたように、私のような子どもたちに伝えたかっただけなのです。
進むも逃げるも、それは絶対に本人次第ですから、なにかを強制することはしたくありませんでした。わたし自身が、それをされて心が壊れかけた経験もあるのでなおさらです。
いつの間にか、わたしはこの大事な”動機”を忘れていました。
学校教育の裏側をみたショックの影響でしょうか。
ともかく、忘れたまま、わたしは先程書いたとおり、”教育者”の立場になりました。
相手は成人した大人たちでしたけれど、私がしていたのはまさしく”善と悪”を押し付けることでした。
本心からしたいことと真逆のことをしているんですから、長く続きませんよね。役が勝ちすぎていると感じていたのも、いま思えば罪悪感だったかもしれません。
ただ、肯定する人にわたしはなりたかったんです。
どんなことがあろうと、なにがなんでもその人の善を肯定し寄り添う人。
ならばまず、自分を肯定して上げたほうがいいんでしょうね。
だからこの休養期間が与えられたのでしょうか?